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京都地方裁判所 平成2年(ワ)1861号 判決 1994年10月17日

原告 加藤義夫

被告 国 ほか一名

代理人 野口成一 近藤備敬 ほか一名

主文

一  原告と被告国との間で、別紙物件目録(一)記載の土地とその南ないし南東でこれに接する被告国所有の国有水路との境界が別紙図面表示のP13・P3・Xの各点を順に直線で結んだ線、同目録(二)記載の土地と右国有水路との境界が同図面表示のX・K53・K51・K49・K48の各点を順に直線で結んだ線であることをそれぞれ確定する。

二  被告石田力は、原告に対し、別紙物件目録(四)記載の建物を収去して同目録(一)記載の土地を明け渡せ。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用中、原告と被告国との間で生じた分については原告の、原告と被告石田力との間で生じた分についてはこれを五分し、その一を原告の、その余を被告石田力の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  原告

1  原告と被告国との間で、別紙物件目録(一)及び(二)記載の各土地とこれに南接する国有水路との境界が別紙図面表示のP13・P3・K53の各点を順に直線で結んだ線であることを確定する。

2  被告石田力は、原告に対し、別紙物件目録(三)記載の建物部分及び同目録(四)記載の建物をそれぞれ収去して同目録(一)及び(二)記載の各土地を明け渡せ。

二  被告国(主文第一項に関し)

原告と被告国との間で、別紙物件目録(一)及び(二)記載の各土地とこれに接する国有水路との境界を確定する。

第二事案の概要及び当裁判所の判断

一  本件は、隣地所有者間の境界に関する争い及び所有権に基づく妨害排除請求の事案である。

二  本件各土地の所有関係など(前提事実)

1  原告は別紙物件目録(一)、(二)の各土地を所有する。同目録(一)記載の土地(京都市右京区梅ヶ畑久保谷町一九番二の土地、以下同町所在の土地については地番で表示する。ただし、これらの土地について分筆による地積の変更等を時期的に特定する必要のある場合は、この点を明記する。)はもと地積一二八平方メートルの土地であったが、平成六年七月二〇日に当時の二一番の土地を合筆した(<証拠略>)(なお、右合筆前の一九番二の土地を以下「旧一九番二の土地」といい、合筆前の二一番の土地については単に「二一番の土地」という。)。

2  被告国は、右目録(一)、(二)記載の各土地の南ないし南東側に、これに隣接して水路敷(以下「本件水路敷」という。)を所有する(<証拠略>)。

3  被告石田力(以下「被告石田」という。)は別紙物件目録(三)記載の建物(一棟の建物の一部であるが、以下「本件(三)の建物」という。)及び同(四)記載の建物(以下「本件(四)の建物」という。)を所有する。その位置は別紙図面記載のとおりである(<証拠略>)。

4  原告は、被告国に対し、右目録(一)、(二)記載の各土地の本件水路敷の境界(以下「本件境界」という。)が別紙図面表示のK48・K49・K51・K53・P3・P13の各点(以下アルファベット、算用数字及びカタカナで示す点は、すべて同図面表示の点である。)を順次直線で結んだ線であると主張し、被告国もこれを認めている。しかし、右のうちK48・K49・K51・K53の各点を順次直線で結んだ線の部分についてはこれを右境界とする境界確定協議が成立しているが、被告国は、その余の部分については、境界の位置については原告と意見を同じくしているものの、被告石田が異議を述べていることを理由に、境界明示手続をしない(<証拠略>)。

5  被告石田は後記三2主張の取得時効を援用する。

三  争点

1  本件各土地の範囲、右各土地と本件水路敷との境界の位置

(一) 原告の主張(被告国の主張を援用する部分を含む。)

本件境界(一九番の土地、二一番の土地、旧一九番二の土地と本件水路敷との境界)はK48・K49・K51・K53・P3・P13の各点を順次直線で結んだ線である。P13・P3・K53の各点を順次直線で結んだ線は本件境界の一部であり、本件各土地はその西ないし北西部にある。したがって、本件(三)の建物部分及び同(四)の建物はいずれも本件各土地の上にある。

(二) 被告石田の反論

公図の記載位置上旧一九番二の土地とされる土地は、a・K10・P14・P4・K16・aの各点を順次結んだ線で囲まれる部分(a・K10・P14・P12・P13・E・D・C・B・A・P4・K16・aの各点を順次直線で結んだ線で囲まれる部分)であり、しかも右土地部分は実際には一九番一の土地である。したがって本件(三)の建物部分及び同(四)の建物は原告所有地の上にはなく、仮に右土地部分が旧一九番二の土地であっても本件(三)の建物部分は同土地の上にはない。

2  被告石田の時効取得(本件(三)の建物の敷地部分について)

被告石田の主張は以下のとおりである。

(一) 石田五郎(以下「五郎」という。)は、昭和四年八月一二日、ア・イ・ウ・アの各点を順に直線で結んだ線で囲まれた土地(以下「本件係争地」という。)を買い受け、本件係争地上に建物(本件(三)の建物はその一部)を建て、以後本件係争地を(所有の意思をもって)占有した。五郎は右占有開始時本件係争地がその所有に属さないことにつき過失がなかった。

五郎は昭和一〇年六月四日死亡し、被告が家督相続し、右建物に居住して本件係争地の占有を続けた。

したがって、被告は昭和一四年八月一二日に本件係争地を時効によって取得した。五郎に過失があったとしても昭和二四年八月一二日に取得時効が完成した。

(二) 被告は、昭和一〇年六月四日、右相続に伴い本件係争地を(所有の意思をもって)占有した。被告は右占有開始時本件係争地がその所有に属さないことにつき過失がなかった。したがって、被告は昭和二〇年六月四日に本件係争地を時効によって取得した。被告に過失があったとしても昭和三〇年六月四日に取得時効が完成した。

(三) 水路部分については黙示の公用廃止があるというべきである。

第三争点に対する判断

一  争点1について

1(一)  まず、(現在の)一九番、昭和六年三月六日分筆後の一九番一(以下、右分筆前の一九番一の土地を「旧一九番一の土地」といい、右分筆後の一九番一の土地については単に「一九番一の土地」という。)、旧一九番の二、二一番、二二番の各土地(右各土地を総称して以下「本件各土地」という。)の公図(京都地方法務局嵯峨出張所備付の公図)上の位置を検討すると、本件各土地は、全体として、東(南東)にある本件水路敷と西(北西)にある国有道路敷(以下「本件道路敷」という。)に挟まれるような位置関係にあり、おおよそ、南(南西)から北(北東)に向かい、一九番、二二番、旧一九番二、一九番一の土地の順に並んでおり、互いに接していて、間の他の土地が入っていない。ただし、旧一九番二の土地は一九番一の土地に比べて公図上かなり(数分の一)狭く表現されているうえ、本件水路敷、一九番一及び二二番の各土地に挟まれたような位置にある(<証拠略>)。

(二)  ところで、いわゆる(旧)公図は、旧土地台帳の付属地図(旧土地台帳法施行細則二条参照)であって、土地の区割と地番を明らかにすることを主眼として作成されたものであり、距離、面積など定量的な点においては必ずしも正確とはいえないが、各土地の形状、配列状況及び境界の屈曲状況など地形的な点については比較的正確であるといえる。したがって、公図は、(特に不動産登記法一七条所定の地図が作成されていない地域においては、これに準じるものとして、)土地の境界を示す客観性のある資料として重要なものというべきであり、一般的には、公図と現況とを対照して関係土地やそれらの境界の位置を検討することには相当の合理性があるということができる(<証拠略>)。

2(一)  本件各土地付近には、かねてから府道(京都周山線、以下「旧府道」ともいう。)があり、本件土地付近はそのカーブ部分の一つであったが、大正一一年ころから右府道の改修工事があり、本件各土地付近においては、右改修後の国道(現在の国道第一六二号線ないし周山街道、以下「改修後の国道」ともいう。)の位置は旧府道の位置より北側になり、カーブがゆるやかなものとなった(<証拠略>)。

(二)  原告と被告国との間に、昭和六二年六月二五日、本件境界の一部(一九番の土地の一部と本件水路敷との境界)について、これがK48・K49・K51・K53の各点を順次直線で結んだ線である旨の境界確定協議が成立した(<証拠略>)。

右を含め、本件各土地付近において、本件水路敷、道路敷とこれに接する土地との間の境界はすべて確定しており、これによれば、K48・K49・K51・K53・K54・K52・K50・P34・K48の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた土地部分と、K32・P2・P31・P13・P12・P33・P7・K31・K32の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた土地部分は、いずれも本件水路に含まれる(以下、前者を「本件水路のうち南部確定済部分」と、後者を「本件水路のうち北部確定済部分」という。)。

(三)  旧一九番二の土地と一九番一の土地との境界に関し、原告と被告国との間に、P14・A・B・C・D・E・P13の各点を順に直線で結んだ線と概ね同一の線が道路区域として明示されており、右両者間では、右線の北側が一九番一の土地であり、その一部が国有道路(改修後の国道)敷であるものと合意されている(<証拠略>)。

3  被告石田の主張は、前記原告と被告国との間では被告石田の所有であることに現在特に争いのない、改修後の国道の南ないし南西側の土地について、これが被告国の所有である可能性があるというものである。さらに、同被告は、公図上一九番一の土地と表示された部分が現実には旧一九番二の土地であり、旧一九番二の土地は国道改修にあたり旧国道の土地を交換する準備のために分筆されたものである旨主張している。また、原告が被告国との間で定めるべきと主張する境界のうちP13点も改修後の国道沿いの点である。そこで、改修後の国道の南ないし南西側に国有地がある可能性について検討する。

(一)(1) 一九番の土地は、もと九畝一四歩(坪)の土地であったが、明治二七年一〇月三〇日に一畝四歩が官有道路成として分割されている。また、旧一九番の一の土地は同じく明治二七年一〇月三〇日に一九番の土地から分筆され、分筆当初二畝四歩であったところ、昭和六年三月一九日(旧)一九番二の土地として一畝四歩が分筆され、一九番一の土地は二五歩となった(<証拠略>)。また、<証拠略>は、京都周山線改修工事潰地調書であって、葛郡梅ヶ畑字久保谷一九の一の加藤重太郎(原告の父。以下「重太郎」という。)所有の土地二畝四坪に関し、三・八九坪がひと坪三円(丙三(特に末尾の買収合計価格の記載)、弁論の全趣旨)で買収された(または買収される予定)であるほか、三四・七六坪が交換された(または交換される予定)旨の記載がある。

(2) 旧府道の改修は大正一一年ころ行われ、潰地の買収もそのころ行われた。一方、旧一九番二の土地が旧一九番一の土地から分筆されたのは昭和六年である。そして、二一番及び二二番の土地はもと国(内務省)の所有地であったが、いずれも、大正一二年二月一二日重太郎に対する払下があり、昭和六年二月二四日に地番が決定され、その直後の同年三月三一日、重太郎に対する右払下を理由とする所有権移転登記手続が行われた。二一番の地積は二一歩、二二番の地積は一三歩である(<証拠略>)。

(3) 旧一九番一の土地のうち潰地となった部分につき大正一一年当時の所有者である重太郎から国に対して登記簿ないし土地台帳上所有権移転の手続がとられた形跡はないものの、二一番、二二番の各土地は、いずれも大正一二年二月一二日払下を原因として昭和六年三月三一日に重太郎へ所有権移転登記手続がなされている(<証拠略>。右登記手続の遅延に関しては、右両土地が移転登記手続直前の昭和六年二月二四日になって地番が決定されたことがその理由として考えられる<証拠略>。)。そして、右両土地の地積の合計は一畝四歩(三四坪)であって、<証拠略>記載の一九番一の土地に関する交換地の地積三四・七六坪によく近似する。また、二一番の土地が一九番の土地から分割されたと同様、一八番の土地からも、明治二七年に官有道路成として三畝二五歩が分割されているが、右土地部分のうち大正一一年ないし昭和六年ころに地番が決定したのは二二番の土地部分のみであり、その余の部分(<証拠略>の図上おおむね一八番の土地と一八番二の土地とに挟まれた部分)はほぼ改修後の国道の敷地となっており、無番地のままである(<証拠略>)。

(4) 登記簿上、二一番、二二番の各土地の重太郎への所有権移転原因は払下となっており、交換とはされていないものの、右(1)ないし(3)で認定した事実と検討した点とを考え併せると、旧府道の改修に伴い重太郎所有の旧一九番一の土地のうち三八・六五坪が潰地となり、そのため道路敷地ではなくなった二一番、二二番の各土地が潰地のうち三四・七六坪と交換される土地として重太郎へ払い下げられ、右両土地では改修後の国有地に不足する(ないし不足が予想される)三・八九坪分が買収されたものと認められる。

(二) 右のように解しても、旧一九番一の土地のうち、右払下及び買収の対象となった土地が旧一九番二の土地部分か一九番一の土地部分か(またはその余の部分か)についてはなお検討の余地がある(買収・払下時期と分筆時期との対比上、旧一九番二の土地が旧府道改修にあたり旧府道と交換する準備のため分筆されたということは考えられないが、交換した結果国有地とすべき範囲を分筆したと考える余地は残る。)。

しかし、まず、一九番の土地と二一番の土地の所有者が本件国道改修後の時点において重太郎であったことは明らかである。そうすると、重太郎が、旧一九番一の土地の一部を改修後の国道敷として国に提供する場合、残部のうち右国道より一九番や二一番の土地側となる土地部分について、右両土地と一体として利用できる便宜上これを自己所有のものとしたいと考えたと推認することは自然かつ合理的である。一九番一の土地については被告国への所有権移転登記手続がとられておらず、またその後原告から第三者(小泉唯三)名義に所有権移転登記手続がなされている(<証拠略>)が、改修後の国道敷については買収済にもかかわらず所有権移転登記手続が経由されていないところがある(弁論の全趣旨)うえ、一九番一の土地には改修後の国道の北側(カーブ内側)の土地も含まれているので(この点に関する被告石田の推論の当否については後述)、国道の南側(カーブ外側)部分の所有権が重太郎に留保されたとしても不自然ではない。このことと公図の記載とを考えると、旧一九番二の土地が一九番一の土地の北側にあると考えるためには相当の根拠が必要である。

(三) そこでさらに検討を進めるべきところ、次に、被告石田は、丙第五号証に表示された本件水路敷や道路敷の位置を前提として一九番一、旧一九番二及び二一番の各土地の位置を図面上表示すると、乙第一九号証に示されたように本件係争地付近の無番地が生じてしまううえ、右各土地の登記簿上の地積(公簿面積)と実面積との間にも食い違いが生じるとし、本件水路敷や道路敷の位置には疑問がある旨主張している。

(1) まず、乙第一九号証とこれを基礎とする被告の右主張は、結局、旧府道を二一番地、改修後の国道を一九番地の一、右両土地の間の土地を旧一九番二の土地とし、改修後の国道と本件水路敷、道路敷によって挟まれる土地部分(カーブの内側)があるとすればこれが無番地となるというにすぎず、無番地の土地が生じる根拠として求積の結果が意味を有しているわけではない。

(2) ところで、乙第一九号証は丙第五号証をもとに二一番の土地等の位置や面積を計算すべく作成された図面であるところ、丙第五号証は丙第一号証を基礎として作成された縮尺二五〇分の一の図面であって、国有水路の位置の特定を目的として作成されているが、旧府道やその改修計画線の位置の記載についても国有水路の位置の特定のため記載されているもので特に不自然な点はない。そして、丙第一号証の正確性についても特に疑念を差し挟むべき証拠はない。したがって、乙第一九号証自体の正確性についても丙第五号証を書き写す際の誤差や図面作成上の誤差以外に特に不合理はないものといえる(<証拠略>)。

(3) 乙第一九号証によれば、二一番の土地を含み、同土地と本件水路敷、道路敷により囲まれる範囲の土地の面積は四三三平方メートルである。

次に、被告は、二一番の土地の地積が二一坪(六九平方メートル―乙一四)または一畝四歩(一一二平方メートル―乙九)としているが、右土地の地番が決定された時点での公簿面積は二一坪であり、また(一)(4)で述べたとおりに、旧一九番一の土地中旧府道の改修にともない潰地となった土地と交換の対象となったのは二一番、二二番の土地と考えることが合理的であることからすれば、二一番の土地は二一坪として扱われていたと考えるべきである。そうすると、二一番、一九番一、旧一九番二の各土地の公簿面積の合計は二七九平方メートルであり、実面積は公簿面積に比して約五五パーセント広いこととなる。

本件各土地は地番が畑である(ただし一九番の土地は大正三年に、一九番一の土地は昭和六三年に地目変更)うえ(<証拠略>)、もともと明治年間以降山間地である(<証拠略>)ものの、いわゆる縄延びや測量誤差がかなりあると推定される。

もっとも、二一番、一九番一、旧一九番二の各土地はいずれも分筆された土地であるから、右の誤差が余りに大きいことは不自然であるが、二一番の土地については、<証拠略>旧府道改修によってその範囲とされる部分が大きく変動したことはないと認められる(<証拠略>)ので、同土地について右のような誤差について検討すると、その公簿面積は前述のとおり六九平方メートルであるのに対し、乙第一九号証では九〇・〇六平方メートルであり、その誤差率は約三〇・五パーセントである。前述の五五パーセントに比べれば誤差は低いが、いったん府道となった二一番の土地についてもこのような誤差があることは、旧一九番一の土地についても実面積と公簿面積との間に相当の隔たりがあり、これを一九番一の土地や旧一九番二の土地が引き継いだとしても特に不自然とはいえない。

(4) したがって、乙第一九号証やその内容についての証人大浜の供述によっては、丙第五号証に記載された本件道路敷や水路敷の位置が不合理であるとまではいい難い。

(四) 次に、被告石田は、本件(四)の建物は改修後の国道ののり面にあったところ、のり面は道路改修に際し買収された土地(潰地の一部)であって国有地であるから、右建物も国有地上にあると主張し、前掲丙第一号証、潰地の丈量図(測量図、<証拠略>、国道改修に際し作成された改修前後の国道断面図(<証拠略>)、石田民人作成の計算及び説明図面(<証拠略>)は右主張の図面・計算上の証拠として援用するほか(<証拠略>)、のり地の占有・払下許可に関する関係書類(<証拠略>)を提出し、また被告本人は右主張に副う供述をする。

(1) <証拠略>をもとにして、本件道路敷、水路敷及びこれに挟まれた部分につき、改修後の国道の断面や同国道部分、のり地部分の位置、面積、旧国道、国有道路敷、国有水路敷の位置を計算すべく作成された図面である(<証拠略>)。

(2) しかし、<証拠略>の記載中旧府道の周囲の土地部分のうち最も低い位置にあるのが水路であると断定してその位置を記載している部分(<証拠略>)については多大の疑問がある。

すなわち、まず、その根拠が<証拠略>の「No.20」及び「No.21」の二つの改修後の国道上ポイント(以下「ポイント番号20番」などという。)の断面図に依拠しているに過ぎず、その間の水路位置については直線として推定しているが、このこと自体に合理性が認め難い。次に、乙第二二号証のポイント番号21番の断面図には改修後の水路の記載がないが、これは乙第二七ないし第三〇号証の改修後の水路の記載と合致せず、乙第二一ないし第二三号証の記載が不正確である可能性もあるが、いずれにせよ乙第二七ないし第三〇号証の推定の根拠を薄弱にする。第三に、本件各土地付近の土地はおおむね南に向かうにしたがい高くなるので、水路の流水も南側から北側に流れるはずである<証拠略>。ところが、乙第二六号証のポイント番号20番及び21番の二つのポイント断面図に記載された「大正一一年当時の水路」の位置(高さ)を改修後の国道と比べると、21番の断面図中水路と推定されている部分のほうが一〇センチメートル以上低い(改修後の国道面からみてより深い部分にある)こととなる<証拠略>。国道面の高さにはさほど大きな違いはないと認められる<証拠略>ので、乙第二六号証の右記載は不合理というべきである。第四に、丙第一号証の図面(原本)では、本件水路敷府文を含め水路が水色に着色されている<証拠略>中「横断図に示されていた水路」とする部分(おおむねポイント番号20番と21番の間の部分)についてはこのような着色はない。このような諸点に照らすと、乙第二四ないし第三〇号証の記載中、水路の位置の推定には疑問がある。

(3) ただし、(三)(2)で述べたと同様、乙第二四ないし第三〇号証の図面作成や計算には、根拠となった乙第二一ないし第二三号証の記載を写し取る作業等図面作成にともなう誤差以上の誤りはないものと推定できる。そして、乙第二一ないし第三〇号証、被告本人尋問の結果によれば、改修後の国道の南側にはのり地部分があったと推認することが可能である。

(4) ところで、乙第三二ないし第三四号証を比較検討すると、乙第三二号証で買収の対象となっている土地(潰地)は国道ののり面ではなくむしろのり下部分の平坦地部分であり(ポイント番号39番等)、右平坦地部分や国道とは反対側で右平坦地部分に接続する土地にはさらに水路や急斜面があったことが認められる(乙三三―ポイント番号39番や40番の図面最右部)うえ、それ以上の土地の形状や所有関係は明らかでない。そうするとこの土地部分については国有地すべき別個の事情があった可能性がある。

また、乙第二七、第二九号証には、前述のとおり、本件道路敷、水路敷及びこれに挟まれた部分ののり地部分の位置が記入されてはいるが、右水路敷の東部については触れられていない。しかし、丙第一号証、第二一ないし二三号証のうち、ポイント番号20番の断面図をみると、この付近にも国道のカーブ外側にのり地があると認められるところ、この部分には被告石田がかねて(大正一一年よりは後である。)使用している家屋や小屋(別紙図面に「はったい粉屋」と記載のある建物)がある(<証拠略>)が、この土地についてものり地にその後勝手に建物が建てられたとまで考えるべき証拠はない。

さらに、乙第二八号証によれば右のり地部分はかなりの面積を占めると推定される。一方、旧一九番一の土地は三八・六五坪が潰地となっている(<証拠略>)が、これは被告石田の主張(<証拠略>)を前提としてもそのほとんどは道路用地であり、これまで検討したところからもそのように認められ、右のような広さののり地部分を新たに買収対象としたことを認めるには丙第三号証では足りず、他には証拠がない。したがってまた、のり地についてすべて道路改修に伴い国有地化されたと考えることには疑問がある。

そして、乙第二一ないし第二三号証の記載から推定されるカーブ外側ののり地については、当初はのり地とせず、その南側の建物(丙第五号証や乙第二七、第二八号証で「大正一一年当時の家屋」とされている建物のうち北側のもの)に接するまでほぼ平坦な土地となるように改修する予定であった(乙第二一号証のポイント番号20番及び21番の断面図)ものが、その後のり地を作るよう改修すべく改修計画が変更になった(乙第二二号証には「変更分」と記載がある。)と推定される(<証拠略>)。また、一九番、二一番、旧一九番一の各土地の所有者であった重太郎にとって、旧一九番の一の土地のうち改修後の国道と二一番の土地とに挟まれる部分の所有権を自己に留保しようと考えるのが合理的であることは前述のとおりである。そうすると、右部分にのり地があるからといってこれをすべて国有地と考えることには相当の疑問がある。

(5) 乙第三号証は旧一九番二の土地が分筆された昭和六年より前の国道の占用許可書類であり、占用期間は昭和九年までとなっているものの、これをもっては前記結論を左右できないし、本件(四)の建物の敷地部分が国有地であると認めることもできない。

(6) そうすると、旧一九番一の土地についてのり面として買収された部分があったということはできない。

(五) 右各検討中認定した諸事実や検討結果に加え、前述した登記簿や公図の記載(一九番、二一番、二二番、一九番一、旧一九番二の土地の位置関係や一八番一、二の各土地の記載との対比)、本件各土地の形状、本件水路が公図上も実際上もほぼ一直線であるところ、本件水路のうち北部確定済部分が南部確定済部分とを一直線となるように結ぶと本件水路の位置は原告や被告国主張のように考えることが自然であること(<証拠略>)、本件水路の幅員が一・二七メートルであること(<証拠略>)、昭和六三年のことではあるが一九番一の土地が畑から雑種地に地目変更されているのに対し一九番二の土地の地目は畑のままであること、前記2(二)のような原告と被告国との境界確定協議の結果、被告国が前記2(三)認定のような道路区域明示をしていることにかんがみれば、国と重太郎は旧一九番の一の土地のうち二一番の土地と接する部分を旧一九番の二の土地として重太郎の所有地のままにしたことが認められ、結局、一九番、一九番二(旧一九番二、二一番)の土地と本件水路との境界は原告や被告国主張のとおりに確定すべきである(ただし後記三参照)。

ただし、右境界中、一九番の土地や本件水路敷の境界線と、一九番二の土地(もとは二一番)と本件水路敷の境界線とが重なる点(一九番と一九番二の土地の境界線と、本件境界とが交わる点)は、丙第一号証、第五号証、弁論の全趣旨(その縮尺をふまえ図上特定)に照らし、これをX点(P3とK53とを結ぶ直線上、P3からK53に向かい六〇センチメートルの点)とするのが相当である。また、原告の境界確定に関する請求は本件境界中境界確定協議が整っている部分を除く残部の確定を求めるものと解される(右のような訴も適法であるというべきである。)が、一方、被告国の請求は一九番の土地と本件水路との境界、一九番二の土地と本件水路との境界の確定を求めるものとなっており、本件境界については一部原告と被告国との間に争いがないものの、本件の経過にかんがみ本件境界全部の確定を求める利益があると認める。

二  争点2について

1  一で検討したところによれば、本件(三)及び(四)の各建物の敷地部分はいずれも原告所有の一九番二の土地に含まれると認められる。

2  被告石田の時効取得に関し、以下の各事実が認められる。

(一) 石田五郎(以下「五郎」という。)は、昭和四年八月一二日、本件係争地を含む土地部分を京都市右京区梅ヶ畑奥殿町六八番一の土地を、本件係争地を含むものとして買い受け、同日以降、本件係争地を含む部分上に建物を建てるなどして本件係争地を占有した(<証拠略>)。

五郎は昭和一〇年六月四日死亡し、被告が家督相続し、右建物に居住して本件係争地の占有を続けた(<証拠略>)。

(二) 本件係争地部分それ自体には国有水路敷は含まれていない(<証拠略>)。

3  そうすると、被告石田は五郎の占有に過失がないことについて特に具体的な主張をしていないので、昭和二四年八月一一日の経過により被告石田は本件係争地を時効により取得したと認める。

三  なお、二の結論は、原告と被告国との境界の一部(線分イウ)が、五郎(被告石田)の時効取得により喪失(一部接していない部分が生じる。)したことを意味する。しかし、これは境界の一部分であり、また一九番及び一九番二の土地は公図上なお本件水路と公図上接しているので、原告の請求中、右時効取得により原告と被告国との所有地の境界ではなくなった部分(線分イウ)について境界を求める部分についても境界確定をすることができ、これを却下をすべきでないと解する。また、前記第二の二4の事情にかんがみ、原告と被告国との間に生じた訴訟費用を被告国に負担させることはしない。

(裁判官 橋本一)

物件目録

(一)、京都市右京区梅ヶ畑久保谷町壱九番弐

畑        壱九八平方米

(二)、右同所壱九番

宅地    参四九・参弐平方米

(三)、京都市右京区梅ヶ畑奥殿町六八番地壱

家屋番号同町七壱番

木造瓦葺弐階建居宅

床面積 壱階 五六・壱九平方米

弐階 参九・六六平方米

附属建物の表示

1、木造瓦葺平家建物置 弐弐・壱四平方米

2、木造瓦葺平家建便所  六・六壱平方米

のうち、別紙図面のア・イ・ウ・アの各点を順次結んだ線で囲まれた赤斜線部分

(四)、京都市右京区梅ヶ畑久保谷町壱九番弐

木造瓦葺平家建小屋

床面積      約一五平方米

(未登記、別紙図面のエ・オ・カ・キ・ク・ケ・エの各点を順次結んだ線で囲まれた青斜線部分)

<図面省略>

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